大判例

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最高裁判所大法廷 昭和23年(れ)205号 判決

主文

本件上告を棄却する。

被告人に對し當審における未決勾留日數中九十日を本刑に算入する。

理由

被告人の上告趣意は別紙添附の上告趣意書の通りである。

憲法第二五條第一項は、「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を營む権利を有する」ことを規定している。しかし、その趣旨は、論旨の言うように「現在の配給食のみを以ては生命を保持し健康を維持し得ない」「国民が此の不足食糧を購入し之を運搬することは所謂生活権の行使である」と速斷することを許すべき意義と内容を有するものではない。そもそも、人類の歴史において、立憲主義の発達當時に行われた政治思想は、できる限り個人の意思を尊重し、国家をして能う限り個人意思の自由に對し餘計な干渉を行わしめまいとすることであった。すなわち、最も少く政治する政府は、最良の政府であるとする思想である。そこで、諸国で制定された憲法の中には、多かれ少かれ個人の自由権的基本人権の保障が定められた。かくて、国民の経済活動は、放任主義の下に活発に自由競争を盛ならしめ、著しい経済的発展を遂げたのである。ところが、その結果は貧富の懸隔を甚しくし、少數の富者と多數の貧者を生ぜしめ、現代の社會的不公正を引き起すに至った。そこで、かかる社會の現状は、国家をして他面において積極的に諸種の政策を実行せしめる必要を痛感せしめ、ここに現代国家は、制度として新な積極的關與を試みざるを得ざることになった。これがいわゆる社會的施設及び社會的立法である。さて、憲法第二五條第二項において、「国は、すべての生活部面について、社會福祉、社會保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と規定しているのは、前述の社會生活の推移に伴う積極主義の政治である社會的施設の擴充増強に努力すべきことを国家の任務の一つとし宣言したものである。そして、同條第一項は、同様に積極主義の政治として、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を營み得るよう国政を運營すべきことを国家の責務として宣言したものである。それは、主として社會的立法の制定及びその実施によるべきであるが、かかる生活水準の確保向上もまた国家の任務の一つとせられたのである。すなわち、国家は、国民一般に對して概括的にかかる責務を負擔しこれを国政上の任務としたのであるけれども、個々の国民に對して具體的、現実的にかかる義務を有するのではない。言い換えれば、この規定により直接に個々の国民は、国家に對して具體的、現実的にかかる権利を有するものではない。社會的立法及び社會的施設の創造擴充に從って、始めて個々の国民の具體的、現実的の生活権は設定充実せられてゆくのである。されば、上告人が、右憲法の規定から直接に現実的な生活権が保障せられ、不足食糧の購入運搬は生活権の行使であるから、これを違法なりとする食糧管理法の規定は憲法違反であると論ずるのは、同條の誤解に基く論旨であって採用することを得ない。食糧管理法は、国民食糧の確保及び国民経済の安定を圖るため、食糧を管理しその需給及び価格の調整並びに配給の統制を行うことを目的とし、この目的を達成するに必要な手段、方法、機構及び組織を定めた法律である。国家経済が、いかなる原因によるを問わず著しく主要食糧の不足を告げる事情にある場合において、若し何等の統制を行わずその獲得を自由取引と自由競争に放任するとすれば、買漁り、買占め、賣惜み等によって漸次主食の偏在、雲隠れを来たし、從ってその価格の著しい高騰を招き、遂に大多數の国民は甚しい主要食糧の窮乏に陥るべきことは、識者を待たずして明らかであろう。食糧管理法は、昭和十七年戦時中、戦争の故に主要食糧の不足を来たしたために制定せられたものではあるが、戦後の今日と雖も主食の不足は戦後事情の故になお依然として繼續しているから、同法存續の必要は未だ消滅したものと言うことはできない。この點から言うと、同法は、国民全般の福祉のため、能う限りその生活條件を安定せしめるための法律であって、まさに憲法第二五條の趣旨に適合する立法であると言わなければならない。されば、同法を捉えて違憲無効であるとする論旨は、この點においても誤りであることが明らかである。

次に、等しく食糧管理法違反と言っても、その犯罪の内容実體は極めて多種多様である。その犯情が同情すべき場合においては、検察官が或は徴罪不起訴となし、或は起訴猶豫となすこともあろう。裁判所においても、或は刑を軽減し、或は刑の執行猶豫を言渡し、或は特殊な事情の下に行われた場合には刑を免除し又は犯罪の不成立を認めることもあるであろう。と同時に犯罪が悪質と認められる場合においては、厳しき處罰をなすであろう。これらは、何れも事実審において、それぞれ各事案に即して適當に裁量判定せらるべきものである。

以上は裁判長裁判官塚崎直義、裁判官長谷川太一郎、同霜山精一、同真野毅、同小谷勝重、同島保、同藤田八郎、同岩松三郎、同河村又介の意見である。

裁判官沢田竹治郎の意見は次の通りである。

近代国家の憲法が宣言し保障する基本的人権の中にはその権利の内容と国家権力との關係において對蹠的な二種のものがある。即ちその一種の権利の内容は国家権力の抑制によって充足されるのに反し他の種の権利の内容は国家権力の発動によって充足されるものである。身體生命の自由といういわゆる自由権的基本人権が前者に属する権利であることは多言を要しない。又この種の権利はつとに各国の憲法に宣言保障されているものであることもいうをまたぬところである。ところが資本主義を肯定する近代国家では單に国家権力の干渉を排除する自由権的基本人権だけを憲法が保障していただけでは、国民の中にはその生存を全くすることのできないものが生ずることのさけられないという見地から、二十世紀に入って制定された憲法には、新に国民の生命の維持とか、生存とかの権利を、宣言し保障する趣旨の規定を見るに至った。日本国憲法第二五條第一項の規定が、この種のものに属していて、その定むる権利の内容は国家権力の干渉を抑制することによって充足される、いわゆる自由権的基本人権の内容とはことなり国家権力の発動によって充足される国民の生活上の利益であることはいうまでもない。そして同條第二項に「国はすべての生活部面について、社會福祉、社會保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と規定して国民がその生活上の利益を享受しうるために、国が整備すべき社會的施設の基本綱領を宣言し、これに適合する施設を実施することを国民に保障しているところから考へると、日本国憲法第二五條第一項の権利の内容は、国が施設する各種の公の保険制度、養老年金、授産場、養老院、孤児院、保護収容所のような社會福祉のためのもの、その他公衆衛生、教育及び娯楽等に關する各種の社會的施設によって、国民が享受し得る生活上の利益に過ぎないのであって、個々の国民がその生活に必要であるとする行為なら、どんな行為でも法律命令によって制限禁止又は處罰されないという国家権力に對する自由ではないといわなくてはならぬ。されば、同項の規定は個々の国民が、その生命をつなぐために必要なりとしてする行為であっても、日本国憲法の規定を実施するために又は公共の福祉のために必要である限り、これを禁止、制限又は處罰する趣旨の法律命令を制定することは、国家に對してこれを禁止するものではない。從って国家の制定した法律命令が單に個々の国民がその生命をつなぐに必要なりとしてする行為をも禁止、制限又は處罰することを定めているからといって、右法律命令は同項に違背する無効のものだとはいえない。だから生命を維持するに足らぬ主要食糧の配給量を補うためにこれを購入し運搬する行為は、憲法第二五條第一項の規定で国民に與へられた権利の行使であって、この権利行使を處罰する食糧管理法令の規定は、同條項に違背し無効のものだとの所論は採用することを得ない。しかのみならず、敗戦後の我国の食糧事情が、国内での生産量だけでは全国民の需要を充すに足らないし、それかといって、その不足量を自由に外国から輸入することができるかというに、これ又不可能に近い情況の下にあることは顕著の事実である。かかる我国情の下において、若しも食糧の賣買譲渡を無制限に国民の自由に放任しておいたとしたら、貧しき者又は食糧生産者でない者は、最少限度の生活すら營むことができなくなることは必至といってよかろう。故に国としては、貧しき者にも富める者にも、可能なる限り乏しき食糧を均分し、国民のすべてが最少限度の生活でも營めるような措置をすることが、日本国憲法第二五條第一項で保障している国民の権利を尊重し擁護する所以であり、同時に同條第二項の国の義務を履行する所以でもあるといってよい。そこで日本国憲法施行以前ではあるが、食糧管理法がこの措置の一方法として食糧の管理をするという目的で制定されたものであることは、同法第一條に「本法ハ国民食糧ノ確保及国民経済ノ安定ヲ圖ル為食糧ヲ管理シ(以下略)」と規定しているところから明かである。そしてこの目的を達する手段として、同法並にその附屬法令において食糧の供出、移入、輸入、賣買譲渡、運搬、加工等を生産者消費者その他民間關係業者の自由に放任しないで、原則として国の機關が自ら又は国の許可認可を得た者のみがこれに當ることとして、ほしいままに国民が食糧の賣買譲渡等をすることを禁止し、これに違背する者を處罰する旨の規定を設けたのは當然のことである。從って同法並にその附屬法令は日本国憲法の規定を実施するためにも亦公共の福祉のためにも必要なものであって、しかも日本国憲法第二五條の規定に適合しているものであり、同法のその他の規定にも何等違背しているものでないから無効ではない。故に原審が食糧管理法の罰則を適用して被告人を懲役刑に處したからといって、原判決には無効の法令を適用したという違法はない。論旨は理由がない。

裁判官井上登の意見は次の通りである。

論旨のいわんとする處は要するに現今吾国において配給せられて居る食料丈けでは国民は生活に必要な栄養を取ることが出来ず遂には栄養失調の為め死亡するに至る、それ故食料の生産手段を有せざる者は生命を維持する為にはどうしても他人から食糧を求めなければならない、然るに食糧管理法及び其附屬法令は食物の買入輸送等を禁止して各人が他から食物を取得する途を杜絶するものであるから、結局において国民の生命不可侵を保障する憲法に違反するものであるというに歸着すると思う、論旨の中には「憲法第二十五條」云々「現在の配給のみを以ては生命を保持し健康を維持し得ない」云々等の語があるけれども、これとても右二十五條所定の権利が所謂受益権であるという様なことを考へて、充分の配給とか其他国家の積極的救済行為に對する請求権などの主張をして居るものとは思へない、これは論旨を通讀すればわかることだし、尚本件の様な食糧管理法施行規則第二十三條の七の禁止令違反を理由として、被告人に刑罰を課した原判決に對し、右禁止令の違憲無効を主張して争う刑事の上告事件において、右の如き請求権の主張をするのは全く意味のないことだからである、尚論旨では第二十五條の生活権の行使という様な語を使って居るけれども、これも普通にいう生命権とか、自由権とかいう意味で、生命維持の為めにする自由行動といった様な意味であろう。(萬一そうでなく生命自由等の不可侵の保障以外に第二十五條によって国民が食物の買入、運輸等の如き直接行為を為す何等かの権利が生ずるものと考えて、それを主張するものであるならば、これ亦殆意味のないものである、第二十五條は右の様な国民各人の直接行為に關する規定ではなく、同條から左様な特別の権利が生ずるものとは恐らく何人もいわない處だからである。)

要するに論旨中の「憲法第二十五條」「生活権の行使」等の語は法律家でない被告人が同條第一項を、生命、自由等の不可侵保障の規定と考えて使用した丈けのことで、これ等の用語に拘はらず論旨の真意は冒頭記載の趣旨と見るべきであろう、論旨をともかくも意味あるものとするには、そう見るの外ないし又論旨全體を通讀すれば其趣旨はわかると思う、其故私は本判決理由本文の前段は論旨に對する答としては餘り必要のないものであると思うし又必ずしも賛成出来ない處もある、判文後段が論旨に答えるものであるからこれは今少し丁寧に書くべきであると思うし書き足らぬ點があるとも思う、よって以下此點に付き少し補足して見たい。

主食物の国内生産高を以てしては到底国民全部を養うに足らず、外国からの輸入に付ても色々の制約があり、なかなか思う通りにはいかない現状の下で食物の統制を行わず、自由な取引に放任するにおいては、生産者富者等は種々最悪の場合を想像して賣惜しみ買溜めを為すであろうし又投機者流は投機の目的を以て買占めを為すであろうことは從来の経験上疑を容れない處である、其の結果は忽の間に食物は之を得るに付特別の手段便宜を有する者の間にのみ偏在し、国民の多數は統制下における目下の状態より更に甚しい窮乏に陥るであろうことは想像に難くない、これに付ては自由取引に任す方が食物の出回りがよくなり食料事情は却ってよくなるであろうとの説を為す者もある、食物の供給が需用を充して尚餘りある様な場合ならばそういうことをいって居られると思ふが、絶對量が充分でない場合においては自由取引では出回は少しぐらいよくなっても、前記の賣惜しみ買い溜め等により価格の著しい上昇を来たし、財産を所有せざる一般勤労階級(勤労階級及其以下の収入しかない者が国民の大多數である)の現今の収入ではどうすることも出来ない状態に至るものと見なければならない、そうなると食物に關する限り廣範圍の暴動という様なことも充分豫想出来る、そして吾国の現状においては許される輸入食料を計算に入れても尚、絶對量が自由取引に任せて差支ない丈けの豊さを持って居るとは到底思へないのである、其故生産者自身の保有量を除き能う限り総ての主食物を政府の手に収め出来る丈け貧富の別なく、公平に国民全般に食物を分配せんとするのが所論法令の目的である、其故此の法令の目的とする處は違憲どころか却て憲法の精神に添うものなのである、固より目的ばかりよくてもやり方が悪るくてはいけないことは勿論だが、能く統制の目的を達せんが為めには所論禁止規定をも是認せざるを得ないと思う(尚後述参照)。(今ここで詳細の経済論をやって居ることは出来ないが大體以上が行政部及食糧管理法を制定した立法部の意見乃至政策であろうと思う、叙上の様な充分考え得べき理由の存する以上、裁判所が之れを全然否定してしまうことは到底出来ない處である。)

以上の如く法律自體は悪いのではない、只現在食物の配給量が一般に必要な栄養を與へるに足りないから色々困ることが起るのであるが、其れは多分に政治行政の問題である、現に取締の強化、公定価格の引上等によって副食物の配給は多少共よくなって来て居る、副食物の供給が充分になれば主食は少し位不足でも栄養を保てないことはないであろう、其他供出の割當食料の運輸等がうまく行けば尚或程度の改善は期待出来ないわけではあるまい、更に国民の自粛により所論法令に對する違反行為が少なくなり、所謂闇營業が無くなり、其結果超過供出の量が増加し食物の大部分が正規のルートに集るに至れば食料事情は多大の好転を来すものといわれて居るのである。

かくして国内生産及許された輸入による総ての食糧を以てしてもなお絶對量が不足であるならば、国民全體が統制により均等に不足を忍び自粛精勵以て復活の日を待つの外ないのである、富める者のみが飽食暖衣他は皆飢餓に瀕するが如き状態は許すべからざるものである、又若し幸にして絶對量がかつかつ乍らも国民全體を養うに足る丈けのものが有るならば、此法に對する違反行為が無くなり、主食糧全部が正規のルートに乗るに至ればそれによって各人の主食不足は救はれる道理である。

配給量が充分でないのに食物の買入等を厳しく制限されるのは困ることには相違ないが此法律は必要巳むを得ない法律なのである、公の福祉のため無きを得ないものなのである、これがなければ有るよりも更に更に悪るい状態が充分豫想されるからである(前記参照)、或は統制の必要は否定しないが現行法は餘りに窮屈である、今少し寛和されなければいけないのだというかも知れない、しかし左様なゆるやかなもので実際上統制の目的を達し得ないこと從来の経験の教える處である、現に食糧管理に關する法律も當初はもっとゆるやかなものであったのだが、それでは統制の実を擧げることが出来ず、巳むを得ず漸次窮屈なものになって来たのであること周知の通りである、其故現行法の窮屈も亦巳むを得ないというの外ない、しかし何といっても現在の配給量丈けでは国民は必要な栄養を保ち得ないことは事実であるから法の運用に付ては相當留意せざるを得ないものがあることは認めなければならない、此法令は相當窮屈なものであるには相違ないがしかし主食丈けに關するものだし又其買入、輸送等を絶對に禁止するものではない、法定の許可があればいいのである、從来は此許可の制度は餘り利用せられて居なかった様に思われるが、それは運用の問題である、法自身としては、そうした寛和方法を設けて居るのである、其他検事の起訴猶豫の制度も認められて居り、刑の執行猶豫もある、尚事案によっては違法性阻却の理論が考へられる場合もあるかも知れない、実際においても運用に付ては相當考慮がはらわれて居るものと見え、吾々の手許(最高裁判所)に来て居るものでは、記録上自己及家族の生活に必要な食料の為めに、巳むを得ざるに出でたものと認むべき様な事案は今の處一つもない、本件においてもそういう證據は一つも無いのである、所謂悪質の闇屋とか其他自己のみ特別の利分を得んとして国民全般から見て必要とせられて居る統制を乱す様な行為を為す者を罰することが悪い理由はない、法の運用に付ては行政部及司法部の良識に期待する外はない、法自體を違憲なりとし、其一般的不適用を主張する論旨には左袒し難い。(尚無論相違點はあるが盗罪等に付ても似た様なことが考へられるであろう、財産を所有せず且職を與へられない者は盗でもしなければ生活出来ない場合はないとはいえない、しかし其為め盗罪を罰する刑法の規定が違憲だという者はあるまい。)

裁判官栗山茂の意見は次の通りである。

日本国憲法の下で、裁判所による法令の違憲審査は、米国のそれと同様に、事案を處理する必要上やむをえず之を行うものであって、抽象的に或法令が憲法に違反するか否かを審査する制度ではない。從て事案に直接關係がある條項の違憲性に限って審査さるべきことは、違憲審査の原則でなくてはならぬ。けだし、事案に直接關係がある條項の違憲性は常に必しも法令の全體を違憲ならしむるとは限らないものであり且たとえ上告人が誤って法令全體の違憲性を論旨としても、裁判所としては事案を處理するのに必要な限度に審判をとどめなければ、法令中事案に關係がない他の部分についての判斷は、結局抽象的に法令を批判する制度に陥るからである。

多數意見は憲法第二五條の解釋を與えた後に、食糧管理法を判斷して「食糧管理法は国民食糧の確保及び国民経済の安定を圖るため、食糧を管理しその需給及び価格の調整並びに配給の統制を行うことを目的とし」云々と説き起して「同法は国民全般の福祉のため能う限りその生活條件を安定せしめるための法律であって、まさに憲法第二十五條の趣旨に適合する立法であると言わなければならぬ。」と結んでいる。然るに本事案を見ると、原判決はその理由中「被告人の判示所為は食糧管理法第九條第三十一條同法施行令第十一條の五同法施行規則第二十三條の七に該當する」として科刑したのに對して被告人は上告したのである。被告人は上告趣旨で言っているように「白米一斗玄米二升を購入し之を運搬するに當り無許可にて運搬した事実」に對し前記諸條項を適用されたものである。從て當裁判所として本件上告を審判するには、前記適用條項の違憲性について論旨を判斷すべきものである。なる程、結果から見れば、多數意見は「食糧管理法は、まさに憲法第二十五條の趣旨に適合する立法であると言わなければならぬ」と判斷しているから、よいようではあるが、同一論法でゆくとして、假りに憲法第二十五條の趣旨に適合しないと言うことになったとすれば、何の為めに食糧管理法の全般(同法中罰則以外は第九條のみが本事案に關係があるので、価格の調整、配給の統制等に關する條項は關係がないのである。)に亘って適合しないと判斷しなければならないか。違憲の場合だけは當該條項のみについて判斷し、適憲の場合は全體について判斷するということはできない。かような判斷の仕方は裁判所が違憲審査に關する権限をこえて、両院がなすべき判斷をするのと同様であって、第三院と化せんとするものである。裁判所が権利拘束が生じた事案の處理以上若くは以外に及ぶ立法に關してする判斷は、事案に適用される條項に關する法律的判斷ではなくして、立法それ自體の価値判斷に歸するのである。国會は公共の福祉を擴充向上するため一つの政策を建て、(社會政策、経済政策もその一つである)之を実行に移すために立法する。この立法即ち政策の価値判斷は政治それ自體の批判であって、かかる価値判斷には裁判所がよるべき法律上の規準がないのは明である。政策に對する救済は国會が與論を反映して、更に適切妥當な政策を建て直すか、若くは、その執行の任にあたる行政府が、運用によって善處するの外はないもので、裁判所が政策に對して法律上の救済を見出しえないのは、その本来の性質上當然のことである。多數意見の食糧管理法に關する判斷を見ると、同法の目的と内容を述べ食糧統制の必要を論じているのであって、つまり国會で提案されるときに、立法理由を説明しているのと同様な立場に裁判所が置かれていると錯覚しているのである。即ち立法府と同じく政策の判斷ができると錯覚していると言える。この點に關聨して、一九三四年米国最高裁判所が下した、ニウヨーク州物価統制法違反事件の判決(ネビヤ對ニウヨーク州事件 291 U.S. 502)中に次のように述べているのを参考に援用する。

「競争の法則を自由に活用することが、果して取引及び商業の法則として賢明で健全なものであるかどうかは、當裁判所が検討し若しくは決定するに及ばぬ経済問題である。それと同様に、立法政策が、専恣的で若くは差別的でない措置によって、無統制な而て有害な競争を抑制するにある場合に、その法規が賢明でないと決定することも亦裁判所の権限ではない。立法府が採った政策の是非、その政策を実行するために制定した法律の妥當性乃至実用性を審査することは裁判所の権限でもなければ又許されていないところである。當裁判所の判決の行き方は、これらの原則が堅持されていることを示している。或政策について立法が必要であるか否かは立法府が第一義的に判斷すべきものであり、かかる立法の有効性については、あらゆる推定がゆるさるべきであり而てよし裁判所が當該立法の趣旨に反對の意見をもっていても、その法律が立法府の権限をこえていることが明でない以上は、それを無効とすべきものでないことは、當裁判所が、幾度となく述べたところである。」

右に述べた法令違憲審査の條件を前提として本事案に臨むべきである。加之、多數意見によっても「憲法第二十五條の規定により直接に個々の国民は、国家に對して具體的、現実的にかかる権利を有するものではない」のである。卑見によれば、憲法第二十五條は、社會立法に關して立法府に與えた基準又は尺度である。例えば労働基準法第一條を見れば、「労働條件は、労働者が人たるに値する生活を營むための必要を充たすべきものでなければならぬ。この法律で定める労働條件の基準は最低のものであるから、労働關係の當事者は、この基準を理由として労働條件を低下させてはならないことはもとより、その向上を圖るように努めなければならない。」と規定し同法第十三條は「この法律で定める基準に達しない労働條件を定める労働契約は、その部分については無効とする。」と規定している。これ等の規定を見れば憲法第二十五條の指針が何處にあるかは自ら明である。労働基準法の條項のようなのは、まさに憲法第二十五條の指針に答えたものである。等しく公共の福祉を目的とするものではあるが、食糧の管理、物価の統制、獨占の禁止というような個人の経済活動を制限する法規は、憲法第二十九條第二項、憲法第三十一條等によって支配されるもので、社會立法による保護助成を目的とする憲法第二十五條によって支配さるべきものではないのである。

以上の諸點を考慮して本事案を判斷するとすれば、次の結論に到達せざるをえない。即ち上告趣旨を文字通りにとって、食糧管理法が憲法第二十五條に違反するという攻撃であるとすれば、同條は本事案には直接關係がないものであるから、論旨は食糧政策に對する攻撃であって、的なきに矢を放つもので上告適法の理由とはならないものである。

裁判官齋藤悠輔の意見は次の通りである。

憲法第二五條第一項の規定は、国民がいわゆる受益権の一種言い換えれば国家から或る積極的な利益を受けることを内容とする一種の基本的人権を有することを規定したもので、消極的に国家から干渉乃至壓迫を受けることのない自由権的基本人権のあることを定めたものではない。すなわち同條項の趣旨とするところは国家が自力を以て生活を營むことのできない国民の何人に對してもその生活を保障せんとするもので、かかる自力を以て生活を營むことのできない国民は健康で文化的な最低限度の生活を營むにつき積極的に国家の保護を要求し得る基本的な権利あることを規定したものと解すべきである。蓋し、憲法は、すべての国民にいわゆる自由権的な基本的人権の享有を認め、生命、自由及び幸福追及に對する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、干渉乃至壓迫を加えないことを保障している。從ってその自由権の本質上、自力すなわち自ら生命、自由を維持し又は幸福追及を為し得る精神的、物質的の能力又は手段を有する者は、公共の福祉に反しない生活言い換えれば健康で文化的な生活を最高限度に營むことができること當然であらねばならぬ。しかるに、自力すなわちかかる心的、物的の能力又は手段を有しない者は、実質的利益の伴わない、いわば、架空な名目丈けの自由権的人権を保障されただけでは到底健康で文化的な最低限度の生活をさえ營み得ないのであるから、憲法は、自由権的基本人権に關する規定の外特に第二五條第一項の規定を設け、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を營む権利を有する。」と宣言して、国家は、自力を以てしてはかかる生活を營むことのできない者に對して積極的に生活保護の利益を與うべきことを保障したものと解するを相當とする。そしてそのことは同條第二項において「国は、すべての生活部面について、社會福祉、社會保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定して、その第一項の反面において、国家は、すべての国民をして少くとも健康で文化的な最低限度の生活を營むことができるようあらゆる生活上の幸福、安寧及び健康に關する社會政策の擴充、増強に努めなければならない義務あることを定めたことからしてもこれを窺い知ることができるのである。されば憲法第二五條第一項の生活権は国民の正當な生活を營み得る基本的な権利ではあるが国家から干渉乃至壓迫を受けない生活行動の自由権ではなく、また、すべての国民が當然無條件で自己の必要とする生活上の保護を国家に求め得る権利とも解すべきではない。それは国民として正當に自活のできない言い換えれば法律その他の立法で定める資格條件に該當する生活のできない国民が法定の手續に從って国家に對し相當な生活保護を求め得る基本的な権利であると言わねばならぬ。それ故、右憲法規定を解して、政府において當然無條件ですべての国民に對し各自の生命を保持し、健康を維持するに必要な食糧を配給すべき法律上の義務を認めた趣旨の規定であるとする論又は国民各自は當然不足食糧を自由に購入運搬する権利あることを認めた規定であって、これを違法とする法律は違憲で無効であるとの論はいずれも誤りであるといわねばならぬ。そして食糧管理法は、新憲法施行前の法律ではあるが、国民食糧の確保及び国民経済の安定を圖るため食糧を管理し、その需給及び価格の調整並びに配給の統制を行うため制定された法律であることは同法第一條の明定するところであるから、その制定の目的は公共の福祉すなわち国民全般の食生活その他一切の経済生活を安定確保するにあること明白である。そして、その目的を達成する當面の手段として同法第二條において、先ず政府の管理すべき国民食糧の範圍を米麥その他勅令(政令)を以て定めるいわゆる主要食糧に限定し、同第三條以下の規定において、その限定された主要食糧を管理する基本方針として、政府が主要食糧を、検査の上、一定の価格を以って、生産者その他の者から強制的に買入れ(いわゆる供出又は輸入)、食糧營團(食糧配給公團)その他の者に一定の価格又は無償にて、これが賣渡貸付交付その他の處分を為し、中央又は地方食糧營團(食糧配給公團)その他の者において、政府又は地方長官の定める食糧配給計書に基き(経済安定本部総務庁官の定める食糧配給に關する基本計書に基き農林大臣の定むる実施計書に從い)一般消費者その他の者に對し、配給又は貸付若しくは交付等を行うべきことを定めたものである。そして同法第九條第一〇條は右の法律規定による食糧の管理を実施するため政府において、特に必要ありと認めるときは勅令(政令)の定めるところにより主要食糧の配給、加工、製造、譲渡又は移動若しくは価格その他右法律で特定限定した事項に關し必要な命令を為し個人の行動の自由を禁止又は制限することを得ることとし、同第三一條においてこれが統制命令に違反した者を處罰することを得るものとし、その附屬法令において、更らに、その施行に必要な事項を規定したものである。されば、同法令制定の目的は、公共の福祉すなわち国民全體の食生活その他の経済生活の安全確保にあって、その主たる手段として、生産者からその保有食糧を差引いた餘剩食糧を供出せしめ、一般消費者に出来得る限り多く分配せんとするものである。それ故国民中生産手段を有するいわゆる生産者は、この法令によって直接その生命又は生活を害せられることなく、また、生産手段を有しない一般消費者はこの法令によって寧ろその生命又は生活を保障されるのであるから、この法令は、食糧その他の経済事情において同法令制定當時と同様の窮迫状態にある憲法施行後においても、憲法の保障する国民の生命、又は生活を不當に拒否又は制限するものではなく、寧ろ、その反對である。從って、同法令は生活受益権に關する憲法第二五條の規定に違反するものとは言えない。しかのみならず、同法令は、前述のごとく公共の福祉を維持するため主要食糧の配給、譲渡、移動、価格その他右法律で特定した事項に關しては、個人の行動の自由を一般的に禁止又は制限することを得るものとしたがこれが例外をも認め相當な場合には許可若しくは特別配給等をも許容して正當に自活のできない国民に對し生活保護を求める方法をも認めているのであるから、この點からしても、憲法第二五條の規定に反するものとはいえない。また、たとい食糧の不足又はその偏在若しくは配給機構又はその方法の不備缺陥等の理由により現に各自の受ける配給食のみを以てその生命を保持し又は健康を維持するに足りないことがあるとしてもそれは法律上如何ともすることのできない事実上の能、不能の問題であるか若しくは法令の運用上の巧拙の問題であって、これがため直ちに該法令そのものを違憲で無効なりとすることはできない。

なお、假りに右に述べたような緊急状態の下に自己及び家族の生活を維持するため真に止むを得ざるに出た行為についてはこれを罰するか否かは具體的案件について慎重に考慮さるべき問題ではあるが、しかし、これは適法な刑罰法規の存在を前提として個々の具體的事件において該法規の適用を排除するいわゆる違法阻却の事由ありや否やの問題であって、一般的に或る刑罰法規自體が憲法に適合するかしないかの問題ではない。そして本件においてはかかる真に止むを得ない緊急状態若しくは具體的な違法阻却の事由あったことの主張並びに立證もなく、漫然自家用の不足食糧を補うために地方長官の許可を得られないから無許可でこれを運搬したと主張するに過ぎないものであるから違法阻却するか否かの見地からしても所論は到底是認するを得ないのである。

以上の理由によって本件上告は刑事訴訟法第四百四十六條に則りこれを棄却し、なお刑法第二十一條に從ひ、被告人に對し當審における未決勾留日數中九十日を本刑に算入すべきものとする。

よって主文の通り判決する。

裁判官庄野理一は退官につき合議に關與しない。

(裁判長裁判官 塚崎直義 裁判官 長谷川太一郎 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上登 裁判官 栗山茂 裁判官 真野毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 齋藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介)

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